ベルリンの壁

ドイツ

ベルリンの歴史は古く、ここに書き尽くせるようなものではないが、現代の象徴はやはりこのブランデンベルグ門だろう。有名な構図ではあるが、これは旧東ドイツ側から見たもので、これが正面つまり出口なのだ。普通の門は入り口が正面であるが、ここでは王が狩りに出かけるときの出口なのだ。その向こう側、つまり旧西ドイツ側は人の住まない森だったのだ。
第二次大戦後は東西の唯一の通路として厳重な警備のもとに残された。
現在ではベルリンの壁と共にドイツの歴史の証人であり重要な観光資源となっている。写真は早朝の姿であるが、日中は広場が観光客でいっぱいになる。

ドイツ人考古学者が偶然発見したものを購入したものだそうだが、よくこれだけの石を持ち帰り再現したものだ。大英博物館にあるエジプト・ギリシャの建造物よりスケールが大きい。

神殿の背面であり、ローマ時代各地に作られた円形劇場の正面やトルコエフェソス遺跡の図書館とよく似ている。

何を意味するのかよくわからないが、日の丸と「日本地区への迂回路」と書かれた道しるべのようなもの、日本人が書いたのだろうか。

2014年11月ドイツを観光した。ドイツは1980年代に何度も訪問したことがあるが、当時は東西に分かれており、東側に行くことはなかったので、前々から行ってみたいと思っていた。西側は美しい先進国であったが、東側のニュースは少なく、共産主義社会の暗い話ばかりであった。しかし行ってみて改めて認識したことは、ドイツは東西を問わず歴史と文化の宝庫である。特に東ベルリン地区は王制時代の首都であり、西ベルリン地区は王の狩場の森だったそうだ。イギリスが占領した西ベルリンは周囲をソ連が占領した東ドイツに囲まれていた。東は第二次大戦後独裁政権下で復興が遅れていた。統一後は復興著しく現在では殆ど西側と変わらない。復興も半端なものではなく、大きな石造りの建造物を正確に復元することに執念が感じられる。エジプトの巨大なアブシンベル神殿をドイツの技術で移設したと聞いていたが、なるほどすばらしい技術だ。
しかし人々の心の中ではまだまだ差別感が残っているのだそうだ。

元東西国境のシュプレー川を挟んで両岸に議員事務所がある。統一の象徴とされる。日本の議員宿舎のような立派なものではなく、一人当たり16平米の事務所だそうだ。無論宿泊は自弁だ。かつてこの川が東西の国境だった。

神殿の正面
建物だけが再現されているが、本当は中にもっと色々な神具があったのだろう。

壁全体にタイルでライオンの絵を配した大広間は目を見張るものがある。

この博物館は紀元前2世紀ごろ今のトルコのあたりにあったアッタロス王朝の都市ペルガモン遺跡から発掘されたものを展示している。トルコではベルガモ遺跡と呼ばれている。中でもゼウスの大祭壇は大掛かりに再現されている。

ペルガモン博物館

有名なソ連のブレジネフ首相と東ドイツのホーネッカー首相のキスシーンも。
独裁的権力を揮ったホーネッカーも統一後は追われて世界を逃げ回わり、どこかで果てた。

かつて東西を分けたベルリンの壁を歴史の証人として約1Kmほど残してある。かつては西ベルリンをグルリと囲んでいたものだ。今そこには自由に落書きが許されているらしい。芸術性のあるもの、ないもの、政治性皮肉のあるものなどなど多岐にわたっている。

ベルリン

国会議事堂

19世紀末に建造された連ぽ議会議事堂であるが、通称ライヒスタークと呼ばれる。1933年中央の丸屋根が焼け落ちた。ナチスは共産党の仕業としたが、後年ナチスが共産党を弾圧するための口実を作るため自らやったとの見方が強い。
かろうじて西ドイツ領内ではあるが統一までは西ドイツの首都はボンに移されたため使用されずに放置されていた。統一後修復されたが、中央の円天井は透明性を表すためガラス張りとされ1990年から正式に国会議事堂とされた。
ガラス天井とはいえ直射日光が議場に入らないように回転式の日よけは設置されたハイテク屋根だそうだ。
ともかく幅が広い。広角レンズでやっと入った。